色彩交想曲
原作とらえずん/人類連合暫定行政委員会
序章 連鎖空還
作 ロジュウ・イムハタ
第一話
■
「おやおや」
モニターのセロハンが消失した場所を未だに見つめながら、
ウィリアム・クリードは頭を振った。
トイレ野郎――William・Criedの頭文字をとりW.C.(Water Closet)・・・。
罵倒と捉えるか、親愛の情と捉えるべきか、未だに微妙なところだ。
名付け親たるニューハーフに、この不名誉なあだ名を付き返してやりたいのは
山々だが・・・・慣れとは恐ろしい。トイレ野郎という言葉がほとんど浸透してしまっている。
言われている本人然り。
「災難だな?W.C.。」
後方から呼びかける六十代の老人、コーウォール・デュバックも然り。
「盗み聞きですか?『タフネス』。」
「目端が利くのでね。無意識に入ってくる情報は盗みとは言わないだろう?」
「言いますよ。情報源がそれを望んでいなければね。」
「それはすまなかった。モノはついでだが、その『タフネス』という呼び名を改めて
もらえればこちらも君を名前で呼ぶ事にやぶさかでは無いが?」
そう言ってコーウォールはウィルの返答を待つ事もなく背後の装置に魅入った。
もはや『タフネス』という呼び名を変更させる事は諦めているらしい。
ウィルは自分と同様の被害者にしんみりと同情した。
視線を、哀愁漂う老人の背中から先へ移すと、鎮座する奇妙なオブジェにぶつかる。
捻じれた螺旋が地上と天井を繋ぎ、円錐を成す。
外見は黒く、内身は白い。
その白さは均一な間隔で配置された幾多の容器によるものだ。
内部の変化に合わせ体積を自動的に変化させる機能を持つ、実体を持たぬ器。
「幾つでしたっけ?今回設置された受精卵は」
「48だ」
「随分使用するんですね。残りのストック全てつぎ込むんですか。」
「前回の失態もあるからな。出し惜しみはできんよ。」
問答に、一瞬の間が空く。
「・・・・ですか。まあ、そうでしょう。」
ウィルの視線が己の足元に向かう。
本来ならばネズミ色の素っ気無い床も、今はうっすらと白光を放つプレートで敷詰められている。
奇妙なのは、それ自体が発光しつつも立つ者の影を映している事だ。
床自身が発光しているように見えるのは幻覚だということだろう。
「不服そうだな・・・。」
依然、螺旋円錐を見つめたままコーウォールは声をかける。
「『これら』は我々にとって部品だ。今更、道徳などという概念を持ち出すのは見当はずれもいい所だ。」
「わかっています。」
ため息らしきものが聞こえた後、幾分軽くなった声が続いた。
「すまない、その話は15日と4時間29分前の時点で終わっていたな。」
「・・・・細かいですね・・・。」
場の空気が少し和んだところへ、拡声器を通してジェスの声が響く。
『そこに居らっしゃるお二人方。突っ立って愛の告白かます暇があるんならさっさとアイリスに場所を譲ったらどう?』
「っと、それは趣味が悪いな。早々に退散することにしよう。」
「よくまあ、この場所まで短時間で来れたな。いい運動になったんじゃないか?『ハーフ』」
元気そうに駆けていくコーウォールの後をのんびり歩きながらウィルは相手をからかった。
しかし、相手の不機嫌に火を付けた愚を悟るまでに、大して時間は要らなかった。
■
二人の男達が話し込んでいる場所は、本来は倉庫だった。
様々な兵器を収納するという役割は何時の話だったか・・・。
本来の役割を一度も果たす事無く、不本意煮に改造されてしまった『元・倉庫』に対し
ニコライ・チェレンコフは深く哀悼の意を示した。
大きなあくびで。
決して彼が怠慢なわけでは無い。メンバーのほぼ全員が56時間に及ぶ徹夜とい
う名の健康療法を実行中だ。そのような状況下において、紳士でいる方が無理と
いうものだ。
座った状況下で可能な限りの柔軟を行う。ポキポキと鳴る人体の節々とギシギシ
と呻く椅子の二重奏。この演奏のタクトを握っているのは彼だ。聞き手は皆無だ
が。
この部屋は、『元・倉庫』に隣接する『元・管理室』だ。
機能美・造形美を共に兼ね備えた造りはデザイナーの拘りを感じさせた。
真っ当な使われ方ならそれも良い。だが、残念ながらこの先真っ当に使われる事
は一切ないと思われる。新しい持ち主が現れない限りは。
この様な事情により、目的に添った機能を追加・あるいは不要な機能を一掃する
作業に全員が繰り出される事となった。
苦労の甲斐あって集中作業は現時点でほぼ終了となるはずだ。
「・・・・・。見た目はともかく、目標は果たしたから良しとしよう。うん。」
周囲の惨状を確認した後、自身の腕に巻き付けた腕バンド状の装置に目をやる。
この装置を作成したのはニコ自身だ。
閉ざされたこの場所だからこそ、この低いスペックで対話というものが出来る。
実生活ではこんなイカスデザインの通話機など存在しない。
ほんのちょっとした趣味だ。
ここで暮らしている人達皆――とはいっても最低限必要な研究者しかいない――
に配った結果、好評とまではいかなくともまずまずの感触ではないかと自身では
思っている。
スイッチは全部で四つ。
小指の爪ほどの大きさのひし形が四つ、互いに隣接する形で配置され、赤・青・
黄・紫と1つずつ色違いになっている。
ニコは青いスイッチを押すと眼鏡を外し疲れた目をほぐした。
たちまち目の前に画像が展開され、特に特徴の無い顔立ちの若者が表示される。
「やあ、“ニコラス”。終わったか?」
「野郎にその愛称では呼ばれるのは我慢できないんだが。」
「ああ、なるほど。だからハーブには呼ばれてもかまわないんだな。納得納
得。」
「あんなイカサマ雄ゴリラを女って認める時点で論外だろう!!」
自身の目で眼鏡のレンズを突き破る雰囲気のニコに対し、画面内の人物――トイ
レ野郎とあだ名された人物は至って平常そうだ。
同じ徹夜組の筈なのにこの違いはどこからくるのか。少しばかり自分の歳にコン
プレックスを抱きそうになったため思考をそこで中止した。
「とにかく終わった終わった終わりました。んで、俺は寝てよござんすか?」
「なんだ、興味ないのかい?これから起こる結果が。」
「ないね。今興味があるのは寝る事だけ。」
椅子から立ち上がると、足元がふらついた。おいおい、これはかなりキテルぞ。
個室に用意されているベットが普段にも増して魅力的に感じられる。
「残念。これからアイリスを呼ぶ予定なのに。」
・・・前言撤回。あの娘の魅力にはベットも敵わねえ。
不覚にも動きを止めてしまったニコの様子を、モニターの向こうからWC男が満足
気に眺めている。
・・・・見透かされてなんか悔しい。
「・・・・まあ眠いのは事実だが、ものすごく眠いわけでもないし、暇ができた
し、
もうちょっとだけ起きてよっかなあ・・・・。」
「それは良かった。目的は違えど僕たちは仲間だからね。」
それは皮肉だったのだろうか?いや、あながちコイツなら素で言いそうな台詞だ
が。
ニコが返答に困っているのを知ってか知らずか、「お楽しみに」の一言を残して
モニターは消失した。
■
「あー、だりいかったりい。アイリス、私を背負え。んで運べ。」
「きこえなーい、きこえなーい。子供と違って大人の体はすぐにガタがくるんだ
から。
こんな時にでも運動しとかなきゃ普段歩かないっしょ?」
この餓鬼は私の目の下に黒々と出来上がった隈を見てないんだろうか?
それ以前に、こんなに嬉しそうな餓鬼の姿を見るのは何ヶ月ぶりなのだろう。
自身のはるか先頭を歩く少女の背を眺め、ジェスは過去へ想いをはせる。
両腕から帯を生やし、産声をまったく上げない赤子。
明確な意識を持つ瞳とさし伸ばされた小さな手の平。
私は、それを―――
「ねえ、ジェス」
淡い回想はシャボン玉よりも儚く消えていく。いや、想い出したくないだけなの
か。
自分の表情がどうなっていたかはあえて考えず、いつもの仮面を表情とする。
「どうした?」
「これからも弟や妹が増える可能性は、有る?」
振り向かずに尋ねるその様からは、この餓鬼がどの様な返答を期待しているか想
像するのは不可能だ。だから素直に答える。
「いや、今回失敗すれば計画は凍結される。」
餓鬼にとってこれから起こることは自身の未来が閉ざされる事を意味している。
――それでも嬉しいのか。
きっと、そう感じてしまう自分は傲慢なコンコンチキなのだろう。
この餓鬼を産み出した(こうした)のは私だ。
産まれた場所が此処ならば、他の生き方など知る術はない。
だから、口にする事は許されない。その心情に深い入りする事は、許されない。
長い通路を渡り終え、扉をくぐる時にジェスが心に浮かべた詞(言葉)はただ一
つだった。
――どうか、私を憎んでくれ。
■
扉が開いた時には、どんな顔で迎え入れようか。
ニコの脳内ではその方法を飽くなき欲求で追い求めていた。
よって、予想外の人物が入ってくる事は予想だにしていなかった。
「やあ、いらっしゃ・・・・てぅを!!」
「なんだ、随分熱烈な歓迎ぶりだな。愛に性別は関係無くなったのか?
ま、見識を広げるのは良い事だろうけどな。」
ジェス――通称、イカサマオスゴリラの意地悪な笑みを見た瞬間、ニコは自分が
トイレ野郎に見事騙された事に気が付いた。
そして、単純な嘘に見事引っかかった自分に対し、一番頭にきた。
「ちゃんと仕事は終えてあるな。ありがとう、“私の為”にこんなに必死に働い
てくれて。」
――・・・・・。
ニコは脳内で訂正する。やっぱりコイツが一番頭にくる。
「アイリスはどうしたんだ?」
ひとまず、最も知りたい事を相手に質問する。あからさまに横っ面を不機嫌そう
に膨らませてそっぽを向きながら。
無意識に行われたその行動は、不思議とジェスの心を軽くしていた。相手にとっ
ては不服だろうからその事は黙って質問に答える。
「今回の実験で必要なんでな。直接“装置”の方へ出向いてもらった。」
途端にニコの表情が凍りつく。
「・・・・何に使うんだ?あの子を。」
「別に変な事をする訳じゃないさ。これが本人の要望なんだよ。」
「そうなのか・・・。」
あの娘の意思だと言われてしまっては、ニコとしても従わざるを得ない。
しかし、それでも・・・
「大丈夫なのか?死んだりとか障害が残るとか・・・・?」
必死で内心の不安を圧し込めようとしているニコの様子を見て、ジェスは嘘とは
言い切れない希望的観測を口にした。
「安心しな。あの餓鬼は別に何もしやしない。ただ装置の傍に居るだけだ。」
実験の内容をそれ程詳しく知らないニコにいちいち専門的な事を言ってもしょう
がない。
専門的な事といえば
「おい、あの装置の傍に固まってムサイ匂いを撒き散らしている二人組みは何
喋ってるんだ?」
ニコが答える前に押し退け、マイクの前に陣取る。これ以上踏み込んだ話題はご
めんだ。
「そこに居らっしゃるお二人方。突っ立って愛の告白かます暇があるんならさっ
さとアイリスに場所を譲ったらどう?」
「よくまあ、この場所まで短時間で来れたな。いい運動になったんじゃないか?
『ハーブ』」
あの餓鬼に関する話題は確かに負担だ。が、逆鱗に触れる皮肉はそれ以上に負担
だった。
今のトイレ野郎の皮肉は正にそれ。
この時、ジェスは今日で二度目の大声を上げる事となる。
「うっせーーーー!!口捻じ切って窒息死させんぞこのスットコドッコイ!!」
何かを叫んでいるとき、冷静な心の声が聞こえてきた。
――ああ、壊れ気味かな?私・・・
■
――もし、もう一度実験を行うなら――
何故あんな事を言ったのだろう?アイリスは自問する。
自身が失敗作だと知らされた時、自身の存在が否定されたと感じる事はこれと
いって無かった。
周囲の対応が突然変ったわけもなく、ジェスはいつだって大きな声を上げながら
遊んでくれるし、ニコはいつも面白い顔をして笑わせてくれる。
ウィリアムさんは・・・あいかわらずな雰囲気だし、コーウォールオジサンの仕
事は今でも手伝わせてもらっている。
それでも、みんなが困っていた事が申し訳なかった。
だけど、あの言葉はそういった罪悪感という類から出た種類の言葉ではなかっ
た。
理由は無く、
――私が導き手になる。――
ただ、それを行う事が当然と感じた。
きっと今感じている疑問は、呼吸という行為を意識した人が感じる、理不尽な息
苦しさに近いモノなのだろう。
具体的に何を行うつもりなのかは自分でも理解していない。
いや、具体的な事は全て研究者が行う。抽象的な事を私は行おうとしているのだ
ろう。
――だから、限りなく装置に近い場所に居させて欲しい。――
今、アイリスは広く眩しい地面の上に立っている。
ウィリアムさんとコーウォールオジサンが話し込んでいたが、いつもの如くジェ
スの大声で終了した。本来はコーウォールオジサンが一番偉い筈だったらしい
が、二つの仕事をこなす為にジェスにリーダー権をバトンタッチしたという。そ
れでジェスに付けられたあだ名が「タフネス」になったとか。・・・・面倒事を
押し付けられた事に対する中てつけっぽく感じるのは自分だけでは無いと思う。
二人が扉付近に居るアイリスに気が付いた。
まず、ウィリアムさんがいつもの調子で声をかける。
「や、アイリス。今日も君の友達は元気が有り余っているようだね。」
「うん、大声を上げるのがジェスの得意技だから。」
「それはいい。確かに彼女の声はよく通る。」
コーウォールオジサンが楽しそうに笑っていたが、何処となく影があるのは先程
の会話が原因なんだろうか?尋ねた所で答えは得られないだろうし、強引な手段
をとるのも気が引ける。それに、自分は会話の内容をすでに知っている気がし
た。
――私は失敗作じゃない――
何故なら、それはきっと容易に想像出来る類のものだから。
「そろそろ実験が始まる。我々は装置を発動させる為に観測室へ戻る
が・・・。」
その言葉の後には『君はどうする?』という疑問へ繋がるのだろう。
それに対し、アイリスがとった行動は唯一つ。
「わかった。」
と頷く事だった。
――私は完成へ至る為の途中経過だから――
自身の言動に疑問は有っても、躊躇いは微塵も無かった。
アイリスの瞳をまともに見つめたコーウォールオジサンは、そこに何かを見出し
た気がした。
角度によって気紛れに変化するこの少女の瞳は青味かかった緑で、その色は
コーウォールの好きなエメラルドグリーンにとても近い。
それが理由という訳では無いが、期待感が募るのは隠せない。
コーウォールオジサンは一言「頼む。」とアイリスに伝えると、振り返る事なく
外へ出て行った。
――実験はまだ途中でしかない――
ウィリアムさんは、コーウォールオジサンの背中を笑顔で送った後、その笑顔を
アイリスに向けた。
「もう決まったのかい?君の家族の名前は。」
「ううん。まだだよ。」
「そうか。それじゃあ、がんばって。」
そしてウィリアムさんも居なくなり、この広い空間に残っているのはアイリス一
人となった。
――私の未来も終焉も辿る道が同じなら――
自分の定位置へ移動する。この空間は驚くほど明るく、驚くほど眩しさを感じさ
せない。
その空間の中心に位置する、主役であるはずの螺旋円錐は、あまりに儚くまるで
端役の様。
アイリスはその儚い螺旋円錐の中心へ入り込む。
自分は此処で産まれた。
そして、また新しい命がここで産声を上げる。
「西暦2849年1月3日七時五十分 『連鎖空還』計画第二段階発動」
――私はこの道を未来と呼びたい――
■
『元・管理室』では、全員の徹夜作業という努力の結晶――モニターやら記録装
置やらの大量の設備が順調に作動していた。
そしてそれに携わる人間達も・・・
「・・・・『四十二』『三十一』『二十二』『四十八』・・・装置内の全器封印
解除。」
「床部の禍版、相変わらずランダムだね。連鎖開始、『16』『34』『39』
『66』・・・」
「早速幾つかがご臨終だ。蝕媒型連鎖空還発動、残り数があと42体」
「ふああ〜〜・・・」
「早すぎるな。もう少し代替を調節してっと・・・、これでどうだ?」
「よし、いい感じだ。連鎖結合種が現在30体と」
「ぶぇっくしょい!!・・・・ズビィーーーー!」
「また大波だ。九体ほど持っていかれた。」
・・・一人を除いて皆必死だ。
その一人とは当然の如く、鼻かんだティッシュをお手玉にして遊んでいるこのメ
ガネ男の事だ。
実験開始時は、必死に餓鬼の様子を眺めていた。んが、まったく変化が無く命に
別状が無いと判断した瞬間からこの始末だ。
ジェスは、設備に危害が加わらない方角へ力の限りニコラスを蹴り飛ばすと、何
事も無かったかの様に装置へ注意を戻した。
蛙が潰れたような声と、トイレ野郎の感嘆が聞こえてきたが、あえて無視する。
「さすがに材料を全て投入しただけあったわね。」
「互いの血肉を補い奪い合い出来上がった30体もの連鎖結合種、か。ここから
先が問題だ。」
問題だと語る割に、タフネスの声にはあまり不安が感じられなかった。
「前回創り上げられた被験体は、カラミティとの結合が上手くいかず、能力値が
本来の利用目的にまったくそぐわなかった。」
緊張をはらむジェスの言葉にタフネスは問いかける。
「君は花言葉を知っているかね?」
「いいえ。」
「連鎖結合種『06』『26』『15』『18』『34』が蝕媒型連鎖空還発動
したよ。」
トイレ野郎の言葉が届く中、タフネスの声が温かくジェスの耳を穿った。
「アイリスの花言葉の一つに、『勇気』がある。」
「・・・・・」
「君が、彼女に名づけたんだ。」
■
目まぐるしく変わっていく。
幾つもの肉体が持っていかれる。
急激な変化と融合を繰り返し、耐え切れなくなっては他者へ身を与え、存在を継
続しようとする。
その様は、人体の子宮内での出来事よりも急速で凄惨な感じがした。
自分もこのように産まれてきたのかと思うと、徒々感嘆するばかりだ。
だが感嘆ばかりもしていられない。これからアイリスは成さねばならない事があ
る。
――そうだ、私が導き手にならなきゃ――
周囲を見回すと、適度な安定を保った『肉』が幾つかあった。
床に敷き詰められたカラミティを吸収し、かつ周囲の血肉を喰らい合い譲り合
い、未来の可能性を残したモノ達。通称『連鎖結合種』。
――そして私の手は・・・――
アイリスは自身の感が促すままに、手近な連鎖結合種に手を触れた。
この瞬間、アイリスの自我を司る五感が裏返った。
■
今まで微動だにしなかったアイリスが、少し動きを見せたと思った瞬間だった。
全ての連鎖結合種が消え去った。
蝕媒型連鎖空還だろうか?
三者の脳裏に同時にその考えが過ぎった。
しかし、その予想はすぐに否定される事となる。
モニターを確認したタフネスが、柄にもなく興奮気味の声で語った。
「通常の連鎖空還――触媒型は、特有の残滓を放出するものだ。しかしこのデー
ターには一切記録されていない。」
その言葉を聞き、思わずジェスの口から一つの言葉が出る。
「・・・界帰型。」
しかしその余韻に浸る時間は、大して無い。
いつの間にか復活していたニコラスが、鼻の穴を綿で詰めた状態で大声を上げた
ためだ。
しかしそれも何の事はない。
もっとも無関心な人物だからこそ、当たり前の異常に気付くのが一番早かっただ
けの事なのだから。
■
色が存在しなかった。
どこまでも届く白い空と、どこまでも続く白い草しかなかった。
おそらく、これを草原と呼ぶのだろう。
その風景は、絵本の中でしか見た事の無い憧れであった筈だ。
なのに、アイリスは単純に喜ぶことが出来なかった。
――この世界はまだ活きていない。――
それがアイリスの受けた印象だ。
ただ在るだけの空間。活きる為の要素が尽く欠如した世界。
存在しない筈が存在し、活きる事を認められない場所。
生の前の死という矛盾した静寂。
明らかにこの空間は異常だった。
独りで居たら、とてもじゃないが平静では居られなかっただろう。
しかし、アイリスには届いた。五感がまともに働かない状況下で、たしかに聴い
た。
この空間内に居るのは自分独りではない。
だから、一緒に連れて行こうと思った。
――還ろう?――
元の世界へ還るために、二人は歩き出した。
その手を離さぬよう、しっかりと握りしめて。
――可能性事象を許さぬ世界。選べる未来は唯一つ。――
最後に覚えていた言葉は、この世界での意味を考える間もなく、脳裏から消失し
た。
■
周囲の喧騒は、取り戻した五感による錯覚なのか。
あるいは、本当に騒がしいだけなのか。
答えは、自動的に後者に決定した。
――ジェスとニコの会話だもん。騒がしくない筈が無いし。――
そこまで認識した時、改めてアイリスは元の世界へ還って来た事を実感した。
お馴染みの喧騒、少々潔癖臭い部屋の匂い、そして自身の手を包む柔らかな感
触。
隣を振り返れば、虹色の瞳が見つめ返してくる。
自然とアイリスの顔が綻んだ。
「・・・おはよう。朝だよ。」
アイリスが相手の少々長めの髪をかきあげてあげると、その少年は笑顔で返し
た。
「・・・おはようございます。」
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